Muho’s diary

小説などを書いている大倉崇裕のオタク日記です。

小説などを書いている大倉崇裕のオタク日記です……が、最近は吠えてばかりです。見苦しくて申し訳ありません。でも、いま日本を支配している政治家とその一派の方が遙かに見苦しいでしょう? ちなみに、普通の日常はこちらです。https://muho2.hatenadiary.jp

「道徳」を教えればいじめはなくなる?パン屋NG、和菓子屋OKの背景

  • 2017年5月20日BuzzFeed Newsより。全文はこちら(https://www.buzzfeed.com/jp/satoruishido/2017-tsujita?utm_term=.jhMq1p84d#.iqXd4rDE5)
  • 現政権やその黒幕である運動団体のやることは、教育から共謀罪改憲に至るまでどれも同じ。つまりは「中身の議論がない」。目的が先にあって、それに向けて盲目的に突き進んでいくだけ。だから、自分が間違ったことをしている認識もないし、それで他人がどうなるかなど考えもしない。目的を達してはっときづいたとき、中身の議論がまるでされておらず、空っぽであることに気づく。それは、現閣僚や運動団体の人間にも言えることだろう。中身がなく、何となく根拠のない妄言を繰り返しているだけ。空っぽで哀れな人間たちだ。それでも、現実は彼らが国を牛耳っているわけだから、ある意味、大したものだと認めざるを得ない。世界の真ん中で中身のない国ニッポンを作ることに成功したわけだ。

学校でこの「道徳」を教えればいじめはなくなる?パン屋NG、和菓子屋OKの背景
道徳教育が揺れている。気鋭の歴史家と読み解く、なぜか道徳で問題が起こってしまう理由。
2018年度から小学校で、これまでの「道徳」が”格上げ”され「特別な教科 道徳」に変わる。いじめなど現実の問題に対応できていないことが理由だと文部科学省は説明している。
ところが、道徳の教科書を巡って現実に起きているのは、パン屋を登場させた教材は「郷土愛不足」、和菓子屋に変えるとOK、というなんとも瑣末な話だ。なぜ、こんな問題が起きるのか。

中身の議論がない
「道徳の教科化というのは安倍晋三首相をはじめとする、保守派の悲願でした。とにかく教科にしたいという思いはあった。ところが肝心の『道徳』の中身を議論していない。だから現場は混乱するんです」
BuzzFeed Newsの取材にそう語るのは、在野の歴史家であり、『文部省の研究』(文春新書)でここ150年の教育史を検証した、辻田真佐憲さんだ。

(略)

「パン」では郷土愛が育めない?

道徳の教科書で「パン屋」を登場させた物語に、文科省の審議会から意見がつく。

「『我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着を持つこと』という内容項目について考えさせる内容になっていない」。文科省の担当者は趣旨をそう解説する。(毎日新聞

この教科書会社は「パン屋」を「和菓子屋」に修正して、教科書検定はパスすることができた。
「郷土愛とは何か、愛国心とは何かを議論して、詰めていないから表面的な話しかできない。パン屋がでてくる物語では郷土愛を育めないけど、和菓子屋さんなら育めるってどういう理屈なんでしょうね」(辻田さん)

(略)

「教科化」ありきの結果
辻田さんは語る。
保守派は、運動として結果をだすために、中身は二の次で「教科化」を目標にしたというのが私の見方です。
「道徳」で何を教えるべきか、なんて議論をしていたら、いつまでたっても一枚岩にまとまらない。それはひとまず置いておいて、教科化を目指した。
1950年代から80年代にかけては、これでも良かった。なぜなら、保守派のなかに論理や議論を重んじようという姿勢がまだ見られたからです。
50年代には、なぜ道徳が必要なのか、保守派の中でも議論をしていました。
例えば、民主主義社会の担い手として健全な愛国心を育てることと、道徳教育をつなげた議論もある。
ここでいう健全な愛国心とは、自立した個人がやがて国を担っていく、という話です。
良い悪いは別にして、国を愛するとは何か、という議論もしっかりやっていた。反対する相手に向き合って、ちゃんと論をもって説得しようとする姿勢が強かったんですね。

教育勅語を再評価
ところが1990年代後半から、保守派の議論が変容してきます。革新勢力の力が弱まるなかで、相対的に保守派の数が多くなる。
そうすると、反対する勢力と議論する、説得するという姿勢は薄まります。
ろくな議論もせず「愛国心」を強調して戦前の教育勅語を再評価したり、教育勅語に「道義国家」への道が書いてあると主張したりする政治家まで、政権の中枢からでてきています。
教育勅語に読めば、そんなことはどこにも書かれていないし、今でも通用すると考えているのは、大きな誤りでしょう。
中身がない「記号」程度にしか考えていないから、こんな発言ができるんです。
結局、愛国的な「記号」を並べれば愛国だ、程度にしか考えていないということです。だから、戦後の保守派の議論さえ顧みず、安直に教育勅語を持ちだしてしまう。
こんな状態が長く続くとは思えません。こんな主張をする人が本当に歴史と伝統を重んじる「保守」なのか。私には疑問ですね。

道徳も保守も「記号」
だから、冒頭にあげた「パン屋」問題を象徴的な出来事だとみる。
「教科化」という目的だけが一人歩きし、中身の議論が積み上げられないまま、表面的な設定の物語が教科書に書き込まれていく。
これで、「特定の考え方に無批判で従うような子供ではなく、主体的に考え未来を切り拓く子供を育て」る(文科省)ことができるのか。

辻田さんはいう。

「ここまで見てきたように、道徳は時々の政治に影響を受けやすい科目です。政治の世界では、いまでこそ記号的な保守が勝ち誇っていますが、いずれ限界が訪れます。そのとき、記号的な『道徳』教育の推進も、見直されることになるでしょう」