Muho’s diary

小説などを書いている大倉崇裕のオタク日記です。

小説などを書いている大倉崇裕のオタク日記です……が、最近は吠えてばかりです。見苦しくて申し訳ありません。でも、いま日本を支配している政治家とその一派の方が遙かに見苦しいでしょう? ちなみに、普通の日常はこちらです。https://muho2.hatenadiary.jp

道徳の名の下に、道徳は失われる

  • マガジン9、いい仕事しているなぁと思う。

 

maga9.jp

 

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──今年の春には、初めての小学校道徳教科書検定が行われ、ある出版社が〈学習指導要領にある「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ」という観点が足りない〉という検定意見を受けて、散歩の途中で子どもが魅力を感じた「パン屋」を「和菓子屋」に書き換えた、というニュースが話題になりましたね。

鶴田 あの話は大きく取り上げられましたが、問題は検定意見のおかしさだけではありません。私は各社の教科書を読み比べてみましたが、そこには検定意見以前の、さまざまな問題があると考えています。

──たとえば、どういうことでしょうか。

鶴田 まず問題だと思うのは、「正式な教科」といいながら、内容がまったく学問的・理論的でなく、正確ではないということです。たとえば「権利と義務」を取り上げた項目では、天秤の写真や、子どもが両手に「権利」と「義務」を持っているイラストが添えられていて、まるで権利と義務の二つが「セット」であるかのように書かれています
 たしかに、日常では「権利ばかり主張していないで義務も果たせ」なんて言われ方をすることはあるけれど、本来、権利と義務とはまったく別々の存在。個人の権利は、その人が何かの義務を果たしているかどうかは関係なく存在するものです。
 それなのに、権利と義務を「セット」として考えると、自分の権利を外に向かって主張することはなかなかできなくなってしまいます。「あなたは権利ばっかり主張して、義務をちゃんと果たしているの」と言われてしまうかもしれないから。日本国憲法でも、権利と義務はセットとして書かれていたりはしないですよね。憲法に依拠していないという意味でもおかしいと思います。

──むしろ、その二つをセットとして扱っているのは自民党憲法改正草案ですね。国民の責務を定めた12条の改正案に「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し」との一文があります

鶴田 学問的でないと感じる箇所は、他にもたくさんあります。たとえば「大切な国旗と国歌」という項目で、「オリンピックの表彰式でも、国旗がかかげられ、国歌がえんそうされます」と書いてある教科書もありました。でも、オリンピック憲章にもあるとおり(※)、オリンピックは国家間の競争ではありません。あそこで掲げられる旗も国旗ではなくあくまで選手団の「団旗」です。

※オリンピック憲章第1章6に「オリンピック競技大会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、 国家間の競争ではない」とある。

──昨年のリオオリンピックでは、難民となった人々が選手団を組んで、「団旗」を掲げて参加していましたね。

鶴田 そうです。「国旗や国歌を尊重する」場面として挙げるには、あまりにも不適当です。
 そうした、学問的に正しくない、客観的な事実を踏まえていないと思われるような記述が、どの社の教科書にも散見されます。やはり、道徳教育の背景になっているのが儒教などをもとにつくられた戦前の「修身」の考え方であって、学問ではないということだと思います。

(略)

──問題は「道徳の教科化」だけではないんですね。

鶴田 さらに言えば、今年3月に公示された新学習指導要領では、「育成を目指す資質・能力」の柱として、「知識及び技能」「思考力・判断力・表現力」とともに「学びに向かう力、人間性」が掲げられています。そして、この三つの柱に沿って各教科の目標が定められており、たとえば社会科なら「国を愛する」、家庭科なら「家族の協力」といった、学問とはいえない道徳的な内容が多く含まれるようになりました
 また、新学習指導要領と同時に公示された新保育所保育指針や幼稚園教育要領では、「国旗や国歌に親しむ」という内容が盛り込まれたことが注目されましたが、もう一つ重要なのが「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」という10項目が掲げられていること。ここにも「健康な心と体」「協働性」「道徳性・規範意識の芽生え」など、小学校以降の道徳教育と共通する価値観が盛り込まれています。
 そうしたところを見ていると、就学前の幼児教育も含めて、「教育」全体に道徳的価値観が持ち込まれようとしていると感じますね。

(略)

鶴田 日本で新自由主義的な政策が本格化したのは、1980年代後半の中曽根内閣のときですが、そこから10年あまり経った1999年、小渕内閣のもとで行われた「21世紀日本の構想」懇談会という有識者懇談会があります。その報告書に、こんな文章があるんです。

 国家にとって教育とは一つの統治行為だということである。(略)共通の言葉や文字を持たない国民に対して、国家は民主的な統治に参加する道を用意することはできない。また、最低限度の計算能力のない国民の利益の公正を保障し、詐欺やその他の犯罪から守ることは困難である。合理的思考力の欠如した国民に対して、暴力や抑圧によらない治安を供与することは不可能である。そうした点から考えると、教育は一面において警察や司法機関などに許された権能に近いものを備え、それを補完する機能を持つと考えられる。 義務教育という言葉が成立して久しいが、この言葉が言外に指しているのは、納税や遵法の義務と並んで、国民が一定の認識能力を身につけることが国家への義務であるということにほかならない。
「21世紀日本の未来」懇談会最終報告書・第5章「日本人の未来」より引用)

 つまり、最低限度の読み書きや計算を身に付けさせて国民をおとなしくさせ、治安を維持するために教育が必要なんだということ。「義務教育はサービスではなく、納税と同じ若き国民の義務である」とも書いています。
 さらにこの後には、一方で優秀な人材を育てることは国家にとっても大きな利益があるから、そちらの教育もしなければならない、といったことが書かれています。つまり、教育にはエリート育成と治安維持の二面性があるということを、驚くほど露骨に書いている。国の「教育」というものに対するとらえ方を、非常によく表していると思います。

──そうした考え方が、今の教育行政にもつながっているのでしょうか。

鶴田 この報告書が出た翌年の2000年には、小渕内閣森内閣のもとで設置された首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」が、「教育を変える17条の宣言」を出し、〈教育の原点は家庭であることを自覚する〉〈学校は道徳を教えることをためらわない〉〈奉仕活動を全員が行うようにする〉などと宣言しています。
 そして2006年には、この教育改革国民会議でも話し合われた、教育基本法の改定が現実のものとなります。そこでも、第2条にある「目標」に、〈豊かな情操と道徳心を培う〉〈公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する〉〈伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と 郷土を愛する〉などの文言が盛り込まれました。さらに、第10条に「家庭教育」の条項が新設されたことが、今問題になっている「家庭教育支援法」が出てくる土壌ともなっています。