- こういうときだからこそ、もう一度、読んでみるべき記事。
- 安倍とその一派が大好きな明治。そこに対し「明治人は、ここまで恥ずかしいことはいいませんでした。」とは痛快。
戦後の日本はフィクション性の強い国でした。つまり、「○○なことにする」で成り立ってきた。原発は事故が起きないことにする。米軍が日本を守ってくれることにする、と。
一方で、明治の日本はリアリズムの時代でした。政府に相当都合が悪いものでも、できるだけ記録を取ってきましたし、それが残っていれば公表されたり、後年に編纂されたりして、国民の前に政治の記録が提示されてきました。
日本を国家として強くしようするならば、政府にとって都合が悪かろうが、記録を記録として認めるという姿勢が非常に重要です。実に簡単なことですよね。
『孝明天皇紀』『明治天皇紀』という本があります。明治大正期の人が編んだ歴史記録です。とくに明治に編まれた『孝明天皇紀』は権力にとって都合が悪いことでもなんでも原物の史料がきちんと削除されず示されています。さすがは明治のリアリズムです。事実は事実として隠さない。これが明治の精神でした。
今回のPKO日報問題や学校法人「森友学園」への国有地売却問題で、いささか心配なのが、公文書であるものを「私的メモ」だと軽く言い換えたり、「公文書ではない」と言い張ったり、「確認できない」と繰り返したりしたことです。
それだけならまだしも、公文書のことをひどいことに「怪文書」とまで、わかっていながら、政府がウソをつき始めました。これはいけません。明治人は、ここまで恥ずかしいことはいいませんでした。
もしPKOの活動地域で、実際に戦闘があったのだったら「戦闘状態があった」と、記録は記録として残さないといけない。「その場しのぎ」ではなく、都合が悪いこともあるけれどもまずは記録をとって残すことが重要です。
戦闘状態があったのなら、現場の兵士はその困難に直面したわけですから、その「リアル」な事実を前提に、きちんと政府・国家が、この事態に向き合わねばならず、議会の野党も言葉尻をとらえて批判するばかりでなく、自衛隊をそのような場所に派遣している状態について国民の代表として責任ある議論をしなければならなかった。
(略)
「記録」というのは、病状に対する「カルテ」という意識を持っていないといけません。公文書というのは国民にとっての「カルテ」なんです。それは国民の財産で、政府は開示すべきものです。
国民の側も、悪いことが書いてあったとしても、批判するのではなく、政府と一緒に国を良くする「データ」ととらえて、最善の治療法を一緒に考えないといけない。
カルテをなかったことにしたり、隠蔽したり、改ざんすることは、例えば重篤な病気や悪性の病気を「良性です」と改ざんすることです。
そんな風に記録をいい加減に扱えば、国家は死にます。「国家が死ぬ」ということは、国民が死にかねないということです。