Muho’s diary

小説などを書いている大倉崇裕のオタク日記です。

小説などを書いている大倉崇裕のオタク日記です……が、最近は吠えてばかりです。見苦しくて申し訳ありません。でも、いま日本を支配している政治家とその一派の方が遙かに見苦しいでしょう? ちなみに、普通の日常はこちらです。https://muho2.hatenadiary.jp

相対的貧困

  • 国民が貧しくなっているのに、海外で金をばらまいている、という政府への批判はよく耳にするが、いろいろなケースがあるにせよ、一概に非難するのは誤りだろう。海外への援助は人道的に見て正当なものだってあるだろうし、今お金をだすことで、その国の中で日本への意識が高まり、将来、下世話な言い方で恐縮だが、何倍にもなって返ってくる可能性だってある。
  • だからどうだと言うわけではないが、「貧困の定義」についての素晴らしい記事。

www.kantahara.com

 

一言で「貧困」といっても、人によってイメージするものは違うでしょう。ある人は、例えばその日食べる物もないアフリカの貧困を思い浮かべれば、ある人は、例えば高校を卒業したらすぐ働き始めなくてはならない日本の貧困を思い浮かべます。

 そもそも「貧困」はどう定義されているのか?世界と日本ではどう違うのか?それぞれの問題点は何なのか?簡潔に解説します。

貧困には、大きく二つの定義が存在します。一つが絶対的貧困、もう一つが相対的貧困です。

 

絶対的貧困とは?

 

人間として最低限の生活をも営むことができないような状態,すなわちベーシック・ヒューマン・ニーズ (=BHN) が達成されていない貧困状態をいう。「コトバンク」より引用)

 

国際協力を通じて僕が取り組んでいるアフリカの貧困は、その多くが「絶対的貧困」で定義されます。

 「世界には1日100円で暮らしている人たちが12億人以上もいます…」といった話を聞いたことがある人も多いでしょう。そのレベルの貧困が、絶対的貧困です。

 かつては1日1ドル以下で生活する人たちを「絶対的貧困」と定義していました。その後、1日1.25ドル以下に変更となり、そして2015年10月には、世界銀行が1日1.90ドル以下に改定しています。この1日1.90ドルが、世界の貧困を定義する国際貧困ラインです。

 

世界銀行は、2015年10月、国際貧困ラインを1日1.25ドルから1.90ドルに改定しました。今回の改定は、物価の変動を反映させることで、より正確に貧困層の数を把握する目的で行われ、2011年に世界各国から新たに集められた物価データに基づいて設定されました。「国際貧困ライン、1日1.25ドルから1日1.90ドルに改定」より引用)

 国際貧困ラインは1.90"ドル"と米ドルで定義されているため、今回の改定は単純に米ドルの価値が落ちたことを受けてだと言われています。日本円にすると1日約200円なので、「毎日200円以下で暮らしている人たちが絶対的貧困」と定義できるでしょう。

 この新貧困ライン(1日1.90ドル)以下で暮らす世界の貧困層は、2012年の9億200万人(世界人口の12.8%)から、2015年には7億200万人(世界人口の9.6%)に減少するとの予測が世界銀行によって世界銀行予測:貧困率が初めて10%を下回る見通し 2030年までの貧困撲滅には依然大きなハードルれていました。世界では約10人に1人が「絶対的貧困」、すなわち人間として最低限の生活すらままならない状態に置かれているのです。

 

相対的貧困とは?

OECDでは、等価可処分所得(世帯の可処分所得を世帯人数の平方根で割って算出)が全人口の中央値の半分未満の世帯員を相対的貧困者としている。相対的貧困率は、単純な購買力よりも国内の所得格差に注目する指標であるため、日本など比較的豊かな先進国でも高い割合が示される。「コトバンク」より引用)

 日本は貧困率が約16%と非常に高い国の一つで、6人に1人は貧困ラインを下回る生活を強いられていると言われています。これは、OECD加盟国の先進国30か国中でも4番目に高いです(参照:イーズ未来共創フォーラム「先進国30ヶ国中、貧困率が4番目に高い日本」より)

 日本における「貧困」は、絶対的貧困ではなく、相対的貧困から考えられています。日本の貧困、つまり相対的貧困は、所得の中央値の半分を下回っている状態として定義されています。年によって変化はあるものの、日本の所得の中央値は概ね年収250万円。その半分に当たる年収125万円以下は、日本では「貧困」と定義されるのです。

 

絶対的貧困相対的貧困、一体それぞれにどんな問題点があるのでしょうか?

 

 

絶対的貧困の問題点

 絶対的貧困の問題点は分かりやすいでしょう。人間としての基本的なニーズが満たされていない状態は、例えば着る服がない(衣)、食べる物がない(食)、住む家がない(住)。他にも学校に通えない子どもたちは、基礎教育という人間としての基本的なニーズが満たされていません。

 僕が出会った南スーダン難民の子どもたちは、一日一食しか食べることができないために栄養失調からお腹が膨れていたり、難民居住区に暮らす18,000人の子どものうち半分にあたる約9,000人が小学校に通えていませんでした。

 

相対的貧困の問題点

年収125万円以下というと、月収にすると約10万円。もちろん、日本の「一般的」な家庭、例えば大学に子どもが通えるような家庭であれば、月収10万円という額はとても少ないように感じるでしょう。大学生であれば、夏休みに思いっきりバイトすればすぐに稼げるような金額です。

 もちろん、日本の貧困家庭にも、一日一食しか食べることができない家庭が存在すると聞きます。新宿の高架下でダンボール生活をしているホームレスの方々も、人間としての基本的なニーズに欠いているでしょう。

 ですが、先ほど話が上がった南スーダン難民の月収は、わずか300円でした。アフリカと日本の間には物価の違いがあるかもしれませんが、南スーダン難民には安全な水や衛生環境、住居へのアクセスも十分に確保されていないことを考えると、「月収10万円」という日本の貧困ラインは、まだ”マシ”に思えるかもしれません。

 では、相対的貧困の何が問題なのでしょうか。その時に考えるべき一つの視点が、社会における「公正」です。

 公正とは、人々に同じ機会へのアクセシビリティ(accessibility)が確保されていることを指します。時として、個人それぞれの差異や来歴は、何らかの機会への参加に対して障壁となることがあります。先進国と途上国との間でも、同じ国の中でも、生まれた場所の社会状況や家庭環境によっては、医療、教育、食事、情報…といった、一般的には「あたりまえ」のものとして享受できる機会への参加が、妨げられてしまうことがあるのです。

 相対的貧困が問題になっている日本では、この公正が担保されていません。大学に通い高等教育にアクセスできること。スマートフォンを手にしてあらゆる情報にアクセスできること。もはや周りのみんなにとっては「あたりまえ」である生活を享受することができない人々がいる社会は、決して公正ではないのです。

 相対的貧困の問題は、公正さの欠如にあると言えるでしょう。