Muho’s diary

小説などを書いている大倉崇裕のオタク日記です。

小説などを書いている大倉崇裕のオタク日記です……が、最近は吠えてばかりです。見苦しくて申し訳ありません。でも、いま日本を支配している政治家とその一派の方が遙かに見苦しいでしょう? ちなみに、普通の日常はこちらです。https://muho2.hatenadiary.jp

怖いから貶める

  • 宇都隆史議員のすさまじいばかりの愚か者っぷりを、見事にさらけだすブログである。当然のように、この人、日本会議ではあるけれど、本来なら、場末の小汚いスナックで、ママ相手にクダをまいているのが、お似合いの御仁。それが今や国会議員として、このような戯言をほざいている。
  • そんなバカな、こんな頭のおかしなヤツが国会だなんて……と思われる方は、ウィキペディアをご覧になるといい。好き好き安倍先生の元、実に華々しい経歴の持ち主だ。女性を軽んじ、ナチスを賞賛する。
  • でもこの方は実にわかりやすい。本心がブログの文章からも透けて見える。つまりは、頭のいい女性が怖いのでしょう? そういう女性がテリトリーを侵してきたら、自分の空疎でスカスカの頭では到底かなわない。だから、家父長とかナチスとかまで持ちだして、屁理屈をつけて、女性を貶め、自分がのし上がろうとする。内心は怖くて怖くて仕方がないのだ。世の中にはもっと楽しく美しいものが溢れているというのに、哀れな愚か者である。
  • でも、こんなヤツでも、こうして持論を開陳し、先生と呼ばれる男になれる。私なんかより、金も権力も持っている。それは選挙で勝ったから。どんな卑怯卑屈な愚か者でも、選挙に勝てば先生だ。選挙って大事。そしてこの人は選挙に勝った。女性に平等も未来もない。

 

今の日本には、父権的なものが徹底的に排除されています。日本男児はどこへ行ったのか? 汗ヒョロヒョロで男か女か分からないような若い男子たち。世のパパ達も、子どもに対する言葉使いからまるでママみたいです。

「厳しさ、強さ、雄々しさ、頼りがい」といった父権はうとまれ、代わりに「優しさ、人あたり、友愛」などといった言葉ばかりが独り歩きしています。私は、「男はより男らしく、女はより女らしく」あるべきだと思っています。ですから、フェミニズムを助長させるような男女共同参画社会の推進には懐疑的であり反対です。(決して女性の社会進出を否定するものではありません。)

 そこで、世の中のお母さん方にお願いしたいのは、「国家のため、社会のため、未来のために強い男を産み育てていただきたい」ということなのです。いざという時に、身を楯にしてでも女性と子供達を守るような男達を育てなければ国の未来はありません。国難や危機に際して、逃げ出すような情けない男を作ってはいけません。そのためには、普段から家庭の中において、お母さんがお父さんに敬意を払う姿を示し、家長の威厳を保つことをしなければなりません

 「日本の誇りと父権の回復は、健全なる婦女子教育が土台となる」というのが私の教育に関する持論なのです。 誇りある日本の復活と再生は、大和撫子にかかっているのです。

  

 「ヒトラーの経済政策」(武田知弘著:祥伝社新書)という本を以前読んだ。その中にとても興味深い一節があった。

 この本は、「ヒトラーが当時のドイツにおいて絶大な人気を集めたのは、演説の巧みさや強いリーダーを望む大衆の空気という側面のみならず、当時の経済政策・雇用政策・福祉政策により劇的な復興を成し遂げたことが大きい」という論調の下、個々の具体的政策を検証しているのである。

 私が最も興味深く読んだのは、ヒトラー少子化ニート対策(P63)である。

 

以下要約

 

◆結婚できない貧しい若者(ワーキングプア)達のために、「結婚貸付金制度」を設け、1000マルクを無利子で借りられるようにした。(現在の日本円に換算すると200万円程度)この貸付金は、子どもを一人生むごとに返済金の1/4が減額され、4人産むと全額免除となった。

 これは少子化対策である一方で、雇用対策でもあった。

 ナチス政権は、女性を家庭に帰そうという政策を採った。それは家庭で子どもを産み育ててもらうためでもあったが、如何にして男性失業者を減らすかという工夫でもあった

「女性が失業しても社会に与える不安は少ないが、男性が失業すると、大きな社会不安になったからだ」 現代の日本社会でこのようなことを公言すると、世の女性たちから一斉に糾弾されそうであるが、私は一つの真理をついていると思っている

 

対等な条件で就活をすれば、努力家で真面目な女性の方が有能な場合が多いだろう。しかし、それによって職に在りつけない男性の社会に与える不安定要素を、政治は見落としてはならないことを、この本から考えさせられたのである。

 

宇都隆史 - Wikipedia