小説などを書いている大倉崇裕のオタク日記です

危険な権力者が教育を語る

  • 一国の指導者が危険な妄想に囚われていることの恐怖。憲法24条の改悪もそうだけれど、こんなものが導入されては、9条云々、戦争云々を言う前に日本は滅んでいる。
  • 家族が大切であり、親は子の教育に責任を負い、多くの時間を子供に割けと言うのであれば、まずはそれができるだけの時間とお金を提供できる基盤を整えるべきで、それが国の役目だ。国民を貧乏にしておいて、女性は家で子育てをしていろ、果ては、発達障害になるのは親の養育が悪いーーなどと言われてはたまらない。
  • 9条だ、戦争だに騙されてはいけない。今の政府はこんな愚かなことばかり考えている。ほかならぬ安倍氏、小池氏が推進しているのだ。あんな人間に、我が子の教育を語って欲しいか? 少なくとも、私は嫌だ。

 

gendai.ismedia.jp

 

衆議院選挙に注目が集まる今、知ってほしい法案がある。自民党が国会に提出しようとしている「家庭教育支援法案」である。

すでに同党の文部科学部会は法案を了承し、早ければ次の国会に提出される可能性がある。小池百合子氏も推進派に名を連ねているので、選挙の争点としては注目されていない。

しかし、法案の内容は、国家が「上から目線」で家庭に介入と指導を行うというもの。憲法改正だけでなく、この法案も「国のあり方」を大きく変える問題として議論されるべきだ。

 

子育てを「国への責任」とする

いま自民党は、同じ名前をもつ「家庭教育支援法案」を国会へ提出しようとしている。さすがに「発達障害は予防できる」とは書いていないが、今の親には問題が多いから管理統制して義務を課すという基本姿勢は同じである。

家庭教育支援の体制については次のように定めている。

*家庭教育支援法案―― 上意下達の体制
・家庭教育支援の基本方向と具体的内容は文部科学大臣が定める(第9条)。
・学校および住民は、国に協力すること(第5・6条)。
・国は、保護者に学習の機会を与え(第11条)、広報・啓発活動を行う(第14条)。
・家庭教育は、保護者の第一義的責任において行う(第2条)。

ここで鮮明になるのは「国が決定 → 学校・住民・保護者が協力」という上意下達の枠組みである。逆に、国へ意見や要望を述べる権利は保障されていない

その一方で、家庭教育の「責任」は保護者が負う。当たり前のようだが恐ろしい。「国に協力すること」と一体化した責任であるから、これは「国への責任」である。子どもへの責任ではない。

なお、教育基本法第10条も保護者が家庭教育の「第一義的責任」を負うと定めている。しかし、同法は国への協力義務を定めていないし、家庭の自主性を尊重すると明記している。それと比較すると、家庭教育支援法案の上意下達型は際立っている。

日本も批准する「児童の権利に関する条約」第5条は、児童への保護者の指導を尊重することを締約国に課している。この条約に抵触することは明らかである。

政治が教育に直結する恐ろしさ

政治と教育が直結している点でも、この法案は恐ろしい。

教育行政においては、専門性や政治的中立性を確保するために教育委員会が設置されている。しかし、この法案による家庭教育支援に教育委員会は関与せず、文部科学大臣が基本方針から具体的内容まで広範な決定権をもつ。そこに歯止めや限界はない。大臣の決めた方針が全国の学校・住民・保護者へストレートに浸透していく。

教育基本法により政府は「教育振興基本計画」の決定権をもつが、詳しい教育内容の決定権はない。教育への政治介入は忌避されるからである。ところが家庭教育支援法案では、文科大臣が強大なフリーハンドを有している。

森友学園の幼稚園では、教育勅語の暗唱、軍歌の合唱、天皇皇后の写真(御真影)への最敬礼が指導されていた。これを国の方針として家庭教育に取り込むことも可能になる。道徳の教科化と相まって、特定の価値観が学校教育だけでなく家庭教育にまで持ち込まれることが危惧される。

教育は「不当な支配」に服してはならない(教育基本法第16条)。たとえ民意の多数で支持された政党や政治家であっても、教育への介入は禁じられる。

それは、かつて多数に支持された政治家や軍部によって教育が国家主義的に歪められ、戦争遂行に利用された過去の教訓でもある。多数派による介入こそ危険なのだ。それは学校でも家庭でも同じである。

ところが、家庭教育支援法案ではそれを防止できない

(中略)

国家の末端機関としての家庭づくり国と社会に役立つ人材育成が指向され、国が定義する「子育ての意義」を植え付けたいのではないか。

その反面、自由に子育てをする権利、生き方や教育方法を自ら選べる権利、良好な教育環境を求める権利は、この法案に一切書かれていない日本国憲法26条は「教育を受ける権利」を保障しているが、この法案は義務しか定めていないのである。

この法律が作り出す社会像

いま本当に求められているのは、全国で4万7千人を超える保育園待機児童の解消、「ワンオペ育児」に苦しむ親へのサポート、相談できる窓口や施設の整備などである。「学習させる」とか「意義を感じさせる」という精神的キャンペーンが必要なのではない。

法案が問題視する「家族の人数減少、共に過ごす時間の減少」は、雇用と所得の向上、住宅政策、長時間労働の抑制などで改善すべきである。国家が解決するべき社会問題を放置しながら、家庭教育の義務と責任だけ国民に押し付けるのは本末転倒である。

一番怖いのは、「国が家庭へ土足で踏み込むのは当然」という空気の醸成である。国民は、子として教育を受ける場面でも、親として子育てをする場面でも、つねに国の方針に誘導される。これは、生き方そのものへの国家介入ではないだろうか。

子どもが学校で問題を起こしたら「責任を果たしていない親」と扱われる。自己責任よりも怖い、国家への責任を果たせという重圧が地域社会を覆う。家庭教育キャンペーンの名のもとに家庭が監視される未来図が浮かびあがる。

安倍首相も小池知事も推進派

この法案は、超党派国会議員による「親学推進議員連盟」の方針に沿って作られた。

2012年4月に安倍晋三氏が代表となり設立され、小池百合子氏(現東京都知事)も名を連ねていた議員連盟である。その母体といえる「親学推進協会」は保守的な家族観に立ち、各地で同様の条例制定に取り組んでいる

(中略)

「子は親を尊敬しなければならない」、「子は愛のムチを喜んで受けるべき」という価値観に立ち、体罰を肯定するかのような詩も発表されている。こんな詩作が義務化されたら、親のいない子や虐待を受けている子は疎外感を感じるだろう。

この団体は、10歳の児童が親への感謝を表明する「2分の1成人式」も推進している。これもまた、さまざまな事情を抱える家庭の子どもには息苦しい行事となっている。

愛国心も親への愛も、強制されるものではない。「あなたたち一人ひとりが大切な存在です」というメッセージこそ、子どもに必要なのではないだろうか。

古来旧弊の価値観にたつ親学の推進団体が、この法案を後押ししていることに不安を覚える。

(中略)

私は、この法案の主目的を「旧来の封建的家族観の復活」と狭く捉えるべきではないとも思っている。新自由主義政策で格差と競争が強まるなか、政府への不満をそらしつつ国民のアイデンティティを保持する手段として「家族の意義」を強調する。

社会保障の削減にあたって国民が目指すべき模範として「国に頼らず自立した家庭像」を提示する。そうした複合的な狙いの産物が、家庭教育支援法案であると思う。
本来は国政選挙の争点となってよいほどの法案である。